大学の夏休み、俺は久々に母方の田舎を訪ねた。山深く、携帯の電波もろくに入らない静かな集落。母に頼まれて、祖母の様子を見に数日滞在することになったのだ。
祖母の家は相変わらず古く、軋む床としんとした空気が妙に懐かしい。だけど、祖母の表情はどこか浮かないものだった。
「泊まるのは、今夜だけにしときなさいね」
ぽつりと、そんな言葉を漏らした。
その晩のことだ。夜中に、妙な音で目を覚ました。
──ぽ……ぽ……ぽ……
最初は風の音かと思った。でも、はっきり聞こえる。規則的なリズムで、遠くから何かが近づいてくるようだった。布団の中で息を潜めていると、やがてその音が家の前で止まった。
気になって窓際へ行き、そっと障子を開けた。月明かりがぼんやりと庭を照らしていて──その先に、いたんだ。
異様に背の高い女。白いワンピースを着て、顔は長い髪で隠れている。けれど、口元だけが見えていた。にやりと笑っていたんだ。まるで、こっちを嘲笑うみたいに…
俺は慌てて障子を閉め、布団に潜った。心臓がうるさいほど鳴って、冷や汗が止まらなかった。
翌朝、祖母にその話をした。すると、彼女の顔が見る見る青くなっていった。
「それ……“八尺様”じゃないのかね」
祖母の震える声を聞いた瞬間、嫌な予感が背筋を走った。
八尺様──この地方に昔から伝わる怪異で、人間の女の姿をしているが、背丈が八尺(約240cm)もあると言われている。見てしまった者は数日のうちに“連れていかれる”。それを回避する唯一の手段は、その土地から早急に離れることだという。
祖母は仏壇から古びたお札を取り出し、家中の窓や入口に貼ってまわった。そして俺に、今すぐ帰れと強く言った。
慌ただしく荷物をまとめ、祖母の知り合いの神職の車で村を離れることになった。しかし──間に合わなかった。
山道を下る途中、右手の竹林からまた、あの音が聞こえてきた。
──ぽ……ぽ……ぽ……
何気なくそちらを見た俺は、言葉を失った。
白いワンピースが揺れていた。木々の間から、あの“女”がすーっとこちらへ滑るように近づいてきていた。
「見るな!目を合わせるな!」
神職が叫び、ハンドルを握る手に力がこもった。車はスピードを上げて森を抜けたが、俺の頭からあの女の笑みが離れなかった。
街に戻った後も、何かがおかしかった。夜になると「ぽぽぽ……」という音がどこからともなく聞こえてくる。
洗面所の鏡に、一瞬だけ白い人影が映る。
誰もいないはずの部屋で、背の高い何かが立っている気配がする。
そしてある夜。
風呂場の鏡の中に、八尺様がいた。
びしょ濡れの髪。ゆっくりと口角を吊り上げる笑み。
それを見た瞬間、俺は全身の力が抜けて倒れ込んだ。
……目が覚めたのは、病院のベッドの上だった。
高熱と幻覚。医者はそう言ったが、俺には分かっていた。
あれは“夢”じゃない。俺の後ろには、まだ──あの気配がいる。
今も、夜になると聞こえる。ぽ……ぽ……ぽ……という、あの音が。
逃げられたと思っていた。でも、違った。
あの女は、忘れさせてはくれない。
ずっと、俺を見ている。
──だから、言っておく。
夜中に変な音が聞こえても、絶対に外を見ちゃいけない。
見たら最後、君も──“連れていかれる”から。
考察:八尺様の恐怖とは
八尺様の恐ろしさは、姿よりも「ぽぽぽ……」という音によって恐怖を植えつけてくる点にあると思います。目撃した人間の記憶や気配をたどって、どこまでもついてくる。都市伝説とは言い切れない、“何か”が本当にあるのかもしれません。
あなたも聞こえたら──
どうか外を見ないでください。
禁忌ノ本棚では、読者の皆様の“洒落にならない体験談”も募集しています。怖い体験、不思議な出来事、身の毛もよだつ噂話などがあれば、ぜひコメント欄やお問い合わせフォームから教えてください😊