これは私が音大生だった頃に経験した今でも忘れられない出来事だ。
音大生にとって、練習室は第二の自宅のようなものだ。コンクール前ともなれば、夜遅くまで残って練習するのは当たり前だった。私も例外ではなく、その日も大学の練習室にこもってバイオリンを弾いていた。
外はすでに暗く、校舎内は静まり返っていた。壁にかかった時計を見ると、針は九時を指している。そろそろ切り上げようかと思ったその時、不意に背後で微かな物音がした。
ハっと振り返る。
しかし、誰もいない。気のせいかもしれない。そう思い直し、もう一度弓を構えた。
その瞬間——。
バイオリンの弦が「ギギッ」と異様な音を立てた。
私は驚いて手を止めた。室内の空気が妙に冷たく感じる。まるで、誰かに見られているような……。
次の瞬間、バイオリンが勝手に鳴り始めた。
「ギィィィ……」
弦が微かに震え、誰も触れていないはずの楽器が、不気味な音を奏でる。
恐怖で身体がこわばる。喉がカラカラに乾き、声も出せない。
恐る恐る近くの鏡に目をやるとなんと私の背後に知らない女が立っていた。
長い黒髪。青白い顔。大きく見開かれた目が、まっすぐこちらを見つめている。彼女の口元はゆっくりと、だが確実に歪んでいった。
私は悲鳴を上げ、思わずバイオリンを落とした。
すると、電気が一瞬点滅し、鏡の中の女が口を開いた。
・・・返して。
かすれた声が、頭の奥に直接響くようだった。
私は我を忘れ、部屋を飛び出した。
翌日、教授にこの出来事を話した。すると彼は、驚くこともなく静かに頷いた。
「……君も見たのか」
教授の話によると、数十年前、この練習室で一人のバイオリニストが亡くなったという。彼女はあるコンクールの本番前日に行方不明になり、数日後、この部屋で発見された。
「発見されたとき、彼女のバイオリンの弦はすべて切れていた。指先には、無数の深い傷があったそうだ……」教授は沈痛な面持ちで続けた。
「彼女のバイオリンだけは、いまだに行方が分かっていない……」
そういえば昨日落としたはずの楽器は、練習室に置きっぱなしだったはずだ…
練習室に戻ると昨日のままそこにバイオリンがあった。
しかし、何かが違う。
恐る恐るバイオリンを持って裏側を見ると、そこにはなんと赤黒い染みがこびりついていた。
いまだに響く旋律
それ以来、私は夜の練習を避けるようになった。
だが、時折、夜更けの練習室から微かなバイオリンの音が聞こえてくる。
誰もいないはずの部屋から、確かに……。
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【考察】音楽と怪異の交差点
音楽には、時として人の魂を引き寄せる力があるのかもしれない。バイオリンという楽器は、特に強い感情を帯びやすいとされる。かつて偉大なバイオリニストたちは、自らの楽器に特別な思いを込めていた。
また、弦楽器の弦は、動物の腸から作られていた時代もある。そうした背景が、このような怪異を生む要因になっているのかもしれない。
この話がただの偶然か、それとも本当に彼女が私の前に現れたのか——今となっては分からない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
夜の練習室には、何かがいる。それを確かめたいなら、あなたも深夜のバイオリン室で弾いてみるといい。
——誰かが、聞いているかもしれないから。